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その恋は、始まる前に、終わりゆく。
「…神代家の当主殿が?」
弟の蒼牙をあやしていたら、祖母があわてた様子で縁側に走り寄ってきた。
「ああ、お前をお呼びだよ。早く着替えてお行き」
「…うん…?」
「う?」
不思議そうに首をかしげる弟の頭を撫でて、あきらは立ち上がった。
「蒼牙、すぐ帰ってくるからいいこで待っていてね」
部屋に帰り、来ていた稽古着を慌ただしく脱ぎすてる。桐箪笥を開けはなって、真新しい畳紙に包まれた練貫(ねりぬき)の小袖を引っ張りだす。つい先日、東京の本家から帰ってきた父親が上機嫌であきらに試着をすすめておざなりに返事したことが記憶に新しい。
主筋の殿に呼ばれたのだから、それなりのものを着るべきだろう。あきらはひとつ頷いてその小袖を広げた。
紅絞りの小袖は、色といい柄といい、あきらにとって好ましいものだった。肩と裾に集中して枝垂れ桜が咲き乱れ、帯で隠れる胴にさしかかると模様や色は抑え目になり、銀糸で控えめに扇や小花が刺繍されている。
はとこの兄がこういった肩裾模様の小袖を気にいっていたことをなんとなく思い出しながら袖を通すとぴったりである。帯は柄の少ないものを選んで、立て矢の形にした。
姿見の前で帯や襟を確認しながら、遊ばせていた黒髪をきりりと一つにまとめあげる。それから白いリボンを結んでにっこり笑って見せる。
『大人しくしていれば、東海家に相応しい女子に見えるのに』
不意に幼馴染の言葉が蘇って、おもわず鏡の中の少女はしかめつらになった。慌てて笑い直すけれど、どこかひきつっている。
「…お化粧、いるかなあ?」
ぼやけた眉を指をなぞって首をかしげる。
当年十二歳。初経を迎えてからというもの、祖母や傅役の美(よし)は苦笑しつつ、口揃えて『娘らしくなりつつあるのだから、あまりお転婆は控えないといけない』と嗜める。
(娘らしくって、なに? あたしはあたしなのに…)
その時、閉じた襖の向こうから声がかかる。返事をすると襖が静かに引かれて傅役の美が姿を現した。
「お嬢様! まあ、部屋をこんなにしてっ」
「あ。美。丁度よかった。ねえねえ、お化粧は、いるのかしら?」
「まあ。お嬢様のつるりとしたお肌に白粉など無粋ですわ」
「そう?」
「ですけれど、今日は初花を迎えて初めて、神代家に上がる日。紅ぐらいは差しましょうか」
「はつはな?」
「初経を迎えたということですわ。古くからの慣習です。東海や日下の姫君は、『女子になりました。もうお嫁に行けます』ということを主筋の神代家に示す義務がありましたの」
もっとも、と美は苦笑した。
「今の時代では廃れた考えですわね。ですけれど、美しくしていくことが礼儀になりましょうね」
「ふうん…?」
よくわかんない。と首をかしげた主人に美は「お嬢様には早かったですわね」とからかい混じりに返して、化粧台から剃刀と紅を出してきた。
ぼやけた眉を整えて、下唇のみに紅を差す。美は感嘆のため息をついた。
桃白の肌、すっと通った鼻梁に涼しげな奥二重、青青とした黒髪は背に流れ、なめらかな光沢を放つ。
ありのままの姿でも、十分に美しい少女だけれど、いまは着飾って、初化粧を施している。ひとたび、外に出れば、この日本人形のような麗しい少女に皆視線を奪われることだろう。その様を想像して、美は誇らしげな気分になった。
「よろしいですわ。なんてお綺麗なんでしょう」
「ありがとう。美」
あきらは面映ゆく感じながら俯いた。
大げさに女の子扱いされるのは苦手だけれど、やはり綺麗な着物を身につけて、化粧を施せば、心躍るのが正直な気持ちである。
ぽかんと口をあけた家人に見送られて、あきらは神代本家の邸に向かった。
付き人は丁度実家に帰ってきた父の末弟の青玻である。叔父といっても二つばかりしか違わないのだが、眼を合わせれば身だしなみや振る舞いに口を出してくるこの末の叔父が、あきらは苦手だった。
しかし、今日はなぜかその叔父がニの句をつげないままあきらを見つめて只つったっていたのだから、奇怪である。
◇◇◇
神代家の応接間に通されて、いつ来ても真新しい畳に関心していると、珍しく洋装に身を包んだ雪路が現れた。だが、いつまでたっても開けた襖に手をかけたまま微動だにしないので、あきらは首をかしげた。
「お邪魔してるわよ。…雪路、家で洋装なんて珍しいわね」
いつもの調子で話しかけると、雪路がぎょっと眼をむいた。
「………あきら?」
「うん」
「……化粧をしたの?」
「うん。綺麗?」
「………びっくりした」
そこまで大層に化けたつもりはないのだが。雪路がまじまじと見つめて来る様子を、なるだけ澄ました顔で眺めるのは気分が良かった。
「どこかいくの?」
「病院に。…青玻さん、お久しぶりです」
それまであきらの隣で、お茶請けの羊羹を咀嚼していた青玻は口の中のものを飲み下してから、からりと笑った。
「久しぶり。若君」
「雪音おねえさまは、お元気でいらっしゃいますか?」
「毎日元気だよ。ホームシックにもならないんだ。まったく、強い叔母君だね」
「想像できます」
あきらもその話に参加したかったのだが、女中があきらを呼びにきたのでそれは叶わなかった。
「おじい様から呼ばれたの?」
「ええ」
「………僕も行こうかな」
雪路がそう零すと、迎えの女中が厳しい表情で諌めた。
「なりません。若さま。もう、迎えの車が待っておりますよ」
「心配しなくていーって。じゃ、いってきまーす。おじ上、ちゃんと待っててよ」
「はいはい」
なおも何か言いたそうな雪路の横をすりぬけて、あきらは慣れた足取りで屋敷の奥へと突き進んだ。
「…神代家の当主殿が?」
弟の蒼牙をあやしていたら、祖母があわてた様子で縁側に走り寄ってきた。
「ああ、お前をお呼びだよ。早く着替えてお行き」
「…うん…?」
「う?」
不思議そうに首をかしげる弟の頭を撫でて、あきらは立ち上がった。
「蒼牙、すぐ帰ってくるからいいこで待っていてね」
部屋に帰り、来ていた稽古着を慌ただしく脱ぎすてる。桐箪笥を開けはなって、真新しい畳紙に包まれた練貫(ねりぬき)の小袖を引っ張りだす。つい先日、東京の本家から帰ってきた父親が上機嫌であきらに試着をすすめておざなりに返事したことが記憶に新しい。
主筋の殿に呼ばれたのだから、それなりのものを着るべきだろう。あきらはひとつ頷いてその小袖を広げた。
紅絞りの小袖は、色といい柄といい、あきらにとって好ましいものだった。肩と裾に集中して枝垂れ桜が咲き乱れ、帯で隠れる胴にさしかかると模様や色は抑え目になり、銀糸で控えめに扇や小花が刺繍されている。
はとこの兄がこういった肩裾模様の小袖を気にいっていたことをなんとなく思い出しながら袖を通すとぴったりである。帯は柄の少ないものを選んで、立て矢の形にした。
姿見の前で帯や襟を確認しながら、遊ばせていた黒髪をきりりと一つにまとめあげる。それから白いリボンを結んでにっこり笑って見せる。
『大人しくしていれば、東海家に相応しい女子に見えるのに』
不意に幼馴染の言葉が蘇って、おもわず鏡の中の少女はしかめつらになった。慌てて笑い直すけれど、どこかひきつっている。
「…お化粧、いるかなあ?」
ぼやけた眉を指をなぞって首をかしげる。
当年十二歳。初経を迎えてからというもの、祖母や傅役の美(よし)は苦笑しつつ、口揃えて『娘らしくなりつつあるのだから、あまりお転婆は控えないといけない』と嗜める。
(娘らしくって、なに? あたしはあたしなのに…)
その時、閉じた襖の向こうから声がかかる。返事をすると襖が静かに引かれて傅役の美が姿を現した。
「お嬢様! まあ、部屋をこんなにしてっ」
「あ。美。丁度よかった。ねえねえ、お化粧は、いるのかしら?」
「まあ。お嬢様のつるりとしたお肌に白粉など無粋ですわ」
「そう?」
「ですけれど、今日は初花を迎えて初めて、神代家に上がる日。紅ぐらいは差しましょうか」
「はつはな?」
「初経を迎えたということですわ。古くからの慣習です。東海や日下の姫君は、『女子になりました。もうお嫁に行けます』ということを主筋の神代家に示す義務がありましたの」
もっとも、と美は苦笑した。
「今の時代では廃れた考えですわね。ですけれど、美しくしていくことが礼儀になりましょうね」
「ふうん…?」
よくわかんない。と首をかしげた主人に美は「お嬢様には早かったですわね」とからかい混じりに返して、化粧台から剃刀と紅を出してきた。
ぼやけた眉を整えて、下唇のみに紅を差す。美は感嘆のため息をついた。
桃白の肌、すっと通った鼻梁に涼しげな奥二重、青青とした黒髪は背に流れ、なめらかな光沢を放つ。
ありのままの姿でも、十分に美しい少女だけれど、いまは着飾って、初化粧を施している。ひとたび、外に出れば、この日本人形のような麗しい少女に皆視線を奪われることだろう。その様を想像して、美は誇らしげな気分になった。
「よろしいですわ。なんてお綺麗なんでしょう」
「ありがとう。美」
あきらは面映ゆく感じながら俯いた。
大げさに女の子扱いされるのは苦手だけれど、やはり綺麗な着物を身につけて、化粧を施せば、心躍るのが正直な気持ちである。
ぽかんと口をあけた家人に見送られて、あきらは神代本家の邸に向かった。
付き人は丁度実家に帰ってきた父の末弟の青玻である。叔父といっても二つばかりしか違わないのだが、眼を合わせれば身だしなみや振る舞いに口を出してくるこの末の叔父が、あきらは苦手だった。
しかし、今日はなぜかその叔父がニの句をつげないままあきらを見つめて只つったっていたのだから、奇怪である。
◇◇◇
神代家の応接間に通されて、いつ来ても真新しい畳に関心していると、珍しく洋装に身を包んだ雪路が現れた。だが、いつまでたっても開けた襖に手をかけたまま微動だにしないので、あきらは首をかしげた。
「お邪魔してるわよ。…雪路、家で洋装なんて珍しいわね」
いつもの調子で話しかけると、雪路がぎょっと眼をむいた。
「………あきら?」
「うん」
「……化粧をしたの?」
「うん。綺麗?」
「………びっくりした」
そこまで大層に化けたつもりはないのだが。雪路がまじまじと見つめて来る様子を、なるだけ澄ました顔で眺めるのは気分が良かった。
「どこかいくの?」
「病院に。…青玻さん、お久しぶりです」
それまであきらの隣で、お茶請けの羊羹を咀嚼していた青玻は口の中のものを飲み下してから、からりと笑った。
「久しぶり。若君」
「雪音おねえさまは、お元気でいらっしゃいますか?」
「毎日元気だよ。ホームシックにもならないんだ。まったく、強い叔母君だね」
「想像できます」
あきらもその話に参加したかったのだが、女中があきらを呼びにきたのでそれは叶わなかった。
「おじい様から呼ばれたの?」
「ええ」
「………僕も行こうかな」
雪路がそう零すと、迎えの女中が厳しい表情で諌めた。
「なりません。若さま。もう、迎えの車が待っておりますよ」
「心配しなくていーって。じゃ、いってきまーす。おじ上、ちゃんと待っててよ」
「はいはい」
なおも何か言いたそうな雪路の横をすりぬけて、あきらは慣れた足取りで屋敷の奥へと突き進んだ。
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